1-3. 宗教画ではない

三日月の夜空

――否定も勧誘もしないための境界線

私は宗教画を描かない。

しかし、信仰的な絵画を描く。

この一見矛盾したような態度に、曖昧さを感じ取る人もいるかもしれない。しかし、私にとっては明確に別のものである。宗教と芸術、あるいは制度としての教義と、内面における信仰性と言った方がよいかもしれない。

宗教画がすべて、信者に向けて教義を絵で解き明かすものだと断定するわけではない。しかし多くの場合、宗教画とは、特定の宗教体系の内部において、一定の規範や文脈にしたがって表現された絵画である。そこに描かれた内容の正統性は、その宗教の権威や伝統によって保証され、信者はそれを敬い、拝する。宗教画は、信じる者の共同体の中で機能することを前提としている。

OIAは、その内部に入らない。宗教を否定するからではない。むしろ、宗教や信仰が持つ重みと深さを理解しているからこそ、安易にそこへ踏み込まない。

OIAが扱うのは、祈りや供養と呼ばれてきた人間の根源的な行為である。しかし、それを特定の宗派や教義によって規定しない。神を定義せず、名付けず、正当化しない。この制限は、表現を弱めるものではない。宗教的な制度から距離を取った生活を送る者が多い現代において、宗教組織によらない信仰性は、むしろ必要とされている。そのことは、表現としての強度を損なうどころか、かえって明確に打ち出すことを可能にする。

この立場を考えるとき、私が思い描く先人がいる。

ウィリアム・ブレイクと、棟方志功である。

二人はいずれも、極めて信仰的なビジョンを描いた芸術家であった。しかし、その作品はいわゆる宗教画には分類されない。彼らが描いたのは、教義の説明でも、宗教的権威の視覚化でもない。制度化された宗教の内部に回収されない地点から立ち上がる像であった。その意味で、近代以前の社会においては、異端と見なされ得る表現であっただろう。

宗教哲学者であり、民藝運動の創始者でもある柳宗悦は、ブレイクについて次のように記している。

「彼〔ブレイク〕の七十年の生涯は殆ど幻像を以って充たされている。彼の深い洞察の眼はよく物事の匿(かく)れた内面に未知の世界を見つめていた。彼の心はよく錯雑(さくざつ)した現象の背後に統一された世界を認めていた。」

ブレイクが「幻像」あるいは「想像」と呼んだものは、単なる空想ではない。肉眼では見えないが、彼のビジョンやイマジネーションは、強い実在感をともなっていた。ブレイクに傾倒していた若き柳宗悦は、ものを「実在」として捉える眼の働きに深い感銘を受け、「目に見えざるものの実在」に対する眼のちからを、そこから学んだと言えるだろう。

柳はまた、1936年に出会った棟方志功を、「無心の美」を体現する芸術家として高く評価している。私自身、映像資料の中で、鼻先を板に擦りつけるように版画制作に没頭する棟方の姿を見たことがある。そこには、思考や計算を超えて、無心のうちに彫刻刀を走らせ、バレンで紙に摺る身体の動きがあった。描かれた作品は、作為を離れた棟方という器に、何ものかが通過し、その痕跡が像として定着したかのようである。

柳は、次のようにも述べている。

「一切のものはその仏性においては、美醜の二も絶えた無垢のものなのである。この本有の性においては、あらゆる対立するものは消えてしまう。『生死なき本分』とも云われ、『本来清浄』とも呼ばれる所以である。」

「生死なき本分」も「本来清浄」も、特別に優れた人間だけが持つ特質ではない。私たちの誰もが、その心の内にいただいているものである。

「無垢」とは、幼さや純真さを意味する言葉ではない。善悪や美醜に分かたれる以前、存在そのものが持つ本有の性であり、世界を分断せずに受け取ってしまう眼差し、そしてその在り方を指している。

OIAが「宗教画ではない」と明言するのは、この地点を守るためである。

否定もしない。勧誘もしない。

鑑賞者の信仰を侵さず、同時に、作品が宗教的あるいは政治的に回収されることを拒む。そのための距離であり、運用としての境界線である。

宗教画ではない。

だが、信仰的である。

OIAは、この緊張を引き受ける場所に立ち続ける。

2026年1月23日 禮白