――手を動かすことで心を澄ませる
【はじめに:修行を苦行から切り分ける】
「修行」という言葉には、宗教的な苦行、芸道あるいは武道の鍛錬、職人の長い下積みといった印象が強い。厳しく、辛く、長期間にわたる下積み――そういうイメージが先に立つ。しかし私がOIA(Offering & Invocation Arts)で言う修行は、根性や忍耐を誇示することとは違う。澄んだ判断と手つきを、状況に左右されずに立ち上げるための反復である。
何の世界であれ、優れたものを生み出そうとするなら、修行的な要素は必要だろう。それを苦行と受け取るか、楽しく没入できるかは本人次第であるが、修行はかくあるべきと理想を語り始めればきりがない。まずは、自分の気分や環境に左右されず、判断と技がよどまず発揮できるように反復を重ねることだ。理想的な状態を待っていても制作は進まない。状況は、たゆまず手を動かす中でしか更新されない。
もちろん、心の面を置き去りにしたいわけではない。だが私の感覚では、心を整える最短の道もまた、手を動かすことの中にある。そういう意味で制作は、心の面が未熟あるいは不安定であっても良いから、まずは「身体を動かす修行」から始まる。
【1,000時間と一万時間:量ではなく密度、そして日常生活】
創作の初心者から一人前になるまでに「1,000時間かかる」とよく言われる。私にはこの数字が、才能を判定される以前の話――つまり、誰もが反復すれば到達できる基礎段階の目安として響く。たとえば自転車や自動車の運転がそうであるように、最初は動作そのものに意識が奪われる。しかし身体が基本動作を受け入れてしまえば、動作の確認や手順の段取りに脳のキャパシティを奪われにくくなる。的確な動作や造形の手順に思考を拘束されず、創造的な判断に時間を使えるようになるまで――その積み上げが1,000時間なのだろう。仮に一日3時間を毎日続ければ約一年だ。目安としては感覚的にも妥当だと思う。
さらに「一万時間の法則」という言葉もある。これは、その分野で第一線に立てるようになるまでに必要な時間の目安として語られることが多い。だが、一万時間続ければ必ず第一線に立てる実力が身につくかといえば、そう単純ではない。数字に明確な基準があるわけではないし、分野の性質や向き不向きによって、必要な積み上げは変わる。
10年〜20年の修行が当たり前という分野において、10代前半で世界の最高峰の舞台に立つ人もいる。単純な時間計算では道理に合わない存在を前にすると、凡人の努力は無意味だと否定したくもなるだろう。しかし、私はそうは思わない。時間は平等でも、時間の密度は平等ではない。集中の深さ、入力の質(良い師につくかどうか)、出力の回転数、修正の速度、そして幼少期からの環境による接触量――それらが密度を押し上げる。こちらにできるのは、与えられた条件の中で、この密度を少しでも高める工夫を重ねていくことだ。
私はさらに、老荘思想や禅の思想を思うとき、練習時間だけでなく、練習以外の日常生活の中での姿勢(思考や行動のクセ)が重要になると感じている。鈴木大拙が説いた「せぬときの坐禅」という言葉がある。坐禅を組んでいない時間においても、坐禅の精神を保ち続けるという意味だが、もし修行する動作や態度が日常の身のこなしにまで一体化していれば、生活時間≒修行時間になる。芸道や職人の世界で超一流と呼ばれる人は、おそらくそれを実現しているのだろう。
【一流とは、模倣を抜けて体系化されたオリジナリティを持つこと】
職人の世界では、弟子入りして一人前になるまでに一定の時間がかかる。昔は下積みが長く、丁寧に教えてもらえることも少ないまま、掃除などの下働きをしながら「目で見て盗め」と言われた。いまは手取り足取り教えてくれる師が好まれ、「背中を見て学べ」という育成は古いものとして批判されがちだ。
もちろん、分かりやすく教えること自体は悪いことではない。だが、咀嚼しやすいように加工されたものばかりを摂取して、工夫もないままでいると、オリジナリティは育ちにくい。コピーが上手い状態から抜け出せない。模倣は入門に必要だとしても、そのままでは一流には届かない。
「目で見て盗む」やり方には、別の意味があったのではないか、と私は思う。手順を言葉として受け取るのではなく、身体の動きや気配まで含めて観察し、それを自分の身体で再構成せざるを得ない。そこには必然的に自分のフィルターが入る。その避けがたいズレが、結果としてオリジナリティの源泉になっていたのではないか。いずれにせよ重要なのは、自分の思考と身体を通して、オリジナルな技と姿勢を体系づけることだ。
音楽、とくにシンガーの世界は分かりやすい。すでに評価の定まったアーティストと全く同じように歌えることは、力量を示す意味はあっても、アートとしての価値にはなりにくい。練習段階のアマチュアにとっては役に立つが、プロの表現としては、二番煎じは二番煎じの評価に留まる。現代アートも同様で、今までにないその人独自のスタイルや世界観の提示が問われ、それが世界を変える力を持つかどうかが試される。
もともと「一流」という言葉には、その世界で第一等であるという序列や称号としての意味のほかに、技芸などで「一流をなす」、独特の流儀を持つ「彼一流のやり方」といった意味もある。私はこの「一流」を、オリジナリティが体系化された状態として使いたい。再現でき、更新でき、他者にも伝わるかたちで、自分の技が自分の身体に組み上がっていること。それが私にとっての一流だ。
【修行が“システム維持の燃料”に転用されるとき】
近代以降の日本のアカデミックな芸術の世界では、〇〇展入選作家といった評価軸が強く働くことがある。頂点に立つ作家はもちろん独自の作家性を持ち、高い見識や鑑識眼を備えている。しかし、システムが大規模になればなるほど、審査や推薦のプロセスは多層化し、入口の段階では相対的に保守的な判断が働きやすい。結果として、「これまでにないオリジナリティ」を持つ作品ほど、初期段階で弾かれる可能性が生まれる。
そのとき起こりうるのは、作品の成熟のための修行ではなく、コミュニティに受け入れられるために自分の色を他者の色に染める行為が、「修行」として求められてしまうことだ。私はそこに、修行が本来の目的からずれて、システム維持の燃料として消費されていく構造を感じることが多かった。
この構造は、美術に限らない。少し飛躍して言えば、宗教的な場にも似た現象が起こりうる。本来、神と人間は一対一で向き合えるはずだ、という感覚がある一方で、人間は不安や欲望や共同体の都合によって、媒介者や制度を必要としてきた。媒介者が共同体にとっての秩序を支える役割を果たすこともある。しかし媒介が固定化されると、取次を必要とする仕組みが秩序として固まり、その内部で人々の感情や労力が「修行」という名で消費されていくことがある。
モダニズムからポストモダンを経て、こうした権威が解体される流れは確かにある。だがそれは、神の否定というより、媒介者の権威が失墜しただけではないか――私はそう疑っている。『ポスト・モダンの条件』でジャン=フランソワ・リオタールが論じた「大きな物語の終焉」も、正当化の形式が崩れていくことを示したのであって、人間の内側に生まれる意味や物語そのものまでが消え去った、という話ではないはずだ(少なくとも私はそう受け取っている)。
そもそも、神という存在を外在のものとして置くほど、依存は生まれやすい。神を内在するもの――人間の心の中の神性として確立するならば、それは外部に従属するための修行ではなく、人間の内面における進化であり深化になる。私が考える「修行」の進むべき方向性は、そこにある。
【私の修行は横断している:宗教・武道・芸道・職人が常に身近だった】
宗教的なもの、武道的なもの、芸道的なもの、職人的なものは、私の人生において常に身近にあった。いま現在、特定の宗教団体には所属していない。しかし過去には、かなり長い期間、ある団体に所属していた時期がある。父も宗教団体に所属していたし、祖父もそうであったらしい。そうしたいきさつを経て、現在の私は特定の団体とは距離を置く方針でいる。
一方で、伝統仏教や神道は言うまでもなく、比較的歴史の浅い宗教団体であっても、日本の伝統文化や芸術の基盤を支えてきた面がある。文化施設や文化的活動を支援している例も多い。私自身も、所属していた当時、和太鼓を学んでいた。信仰が文化と切り離しがたく結びついているという感覚は、私の中に早くから根づいている。
学生時代に取り組んでいた武道は合気道である。武道という身体文化の中に、精神の整え方や、目に見えないものへの姿勢が含まれていることを私はそこで学んだ。また、合気道の開祖である植芝盛平の思想には宗教的要素が色濃く、そうした雰囲気も含めて、私の精神的な基層に浸透している面は否めない。
幼少期には書道に触れ、中高生のころはギターに熱中して毎日5時間ほど弾いていた。大人になってから書を再開し、水墨画、篆刻、表装へと修行の対象が広がっていった。私は一つの分野に閉じこもるのではなく、分野を横断しながら技と姿勢を身につけてきた。だから一つ一つの分野だけを見れば、残念ながら「超一流」と呼ばれる地点には届いていないかもしれない。だが、私が自分で定義した意味での「一流」――オリジナリティを体系化し、自立して運用できる状態――には、OIAの柱となる領域において到達していると自負している。
もし一つの分野だけに集中していれば、もっと高みに行けていたのかもしれない。だが私には、閉じた世界の修行に途中で違和感を覚え、離脱してしまう傾向があった。それは弱点でもあった。しかし今振り返ると、それは単なる気まぐれではなく、私の内側が「統合」を求めていた結果でもあったように思う。
OIA(Offering & Invocation Arts)は、上で述べたすべての経験を統合し、実践していくためのアートである。まさに、今の私のためにあるアートだと言ってよい。私はときどき、
「内なる神(内在する神性)」がこの道を望み、必要な修行と準備を積み重ねるように私を仕向けてきたのではないか
と感じることがある。
ここで言う「内なる神(内在する神性)」とは、外側の権威に依存するための言葉ではない。むしろ、制作を濁らせないために、内側を澄ませ続けようとする中心の感覚である。私は、その中心に導かれるようにして歩んできた――いまはそう感じている。
【水墨画の継承は“制度”ではなく“師”による:文人的な理想と、その現実】
水墨画は、戦後日本のアカデミックな美術教育の中で、中心からかなり外れた位置に置かれ続けてきた。もちろん日本画の制作過程でも墨は用いられ、骨描きや隈取りといった工程がある。だがここでは、それらを「日本画の工程の一部としての墨」ではなく、独立した表現としての水墨画として扱い、その継承のあり方について語ってみたい。
たとえば横山大観や竹内栖鳳の水墨作品は非常に水準が高い。しかしその技法が、美術大学教育の中で体系として継承されたかというと、必ずしもそうではなかった。表現手法として水墨を選ぶ一部の日本画家によって命脈が保たれ、むしろ水墨画に関しては、民間の文化教室のほうが盛んだったという印象がある。
戦後の水墨画は、このような「師のいる場」によって支えられてきた。大陸や台湾で学んだ移住者が教室を開き、そこで学んだ者が独自に発展させていく――水墨画にはそういう系譜が多い。私はその流れの中で水墨画を学んだ。
私の目には、戦後のアカデミックな美術教育は、どうしても西洋を上位と見る意識から完全には自由になりきれなかったように映る。せっかく大観・栖鳳に続く世代が、西洋と東洋の葛藤を経て様々なスタイルを生み出していたにもかかわらず、戦後はそれらの積み上げよりも「西洋的であること」へ比重が移っていったように感じる。西洋との葛藤は中国の画家にもあったはずだが、水墨画の伝統的な技法は、比較的しっかり受け継がれたように思う。そうした伝統は、中国出身、あるいは中国や台湾で美術教育を受けた作家が来日し、教室という形で開いた「文化教室」を通じて、現代の日本人に改めてもたらされた。制度ではなく師の場が継承を担った――そこに文化教室の強みがあった。
日本で水墨画と言うと、彩色を用いず墨だけで描く絵画を思い浮かべる人が多い。だが中国絵画は、普通に色彩を使う。私の水墨画の師は上海出身の中国人で、写意表現の達人だった。一筆一筆に迷いがなく、スピーディに描いて、みるみる作品が仕上がっていく。その手さばきは技巧の誇示ではなく、身体化された判断の速度そのものだった。
私は日本画も複数の教室で学んだ(実績の豊富な日本画家の教室、また芸大日本画科を卒業して間もない若手画家の教室など)。だからこそ、近現代の中国絵画の流れにある水墨と、日本画の流れにある水墨との違いが、身体感覚として分かる。
まず何より、書き直しの効かない線であること。さらに、墨と水が筆の中で混じり、その瞬間ごとに濃淡やかすれが変化すること。そして、にじみ止めの加工をしていない紙に描くことで生じる、予測不可能な滲みがあること。その「コントロールしきれないもの」を抱えたまま、なおコントロールしようとする筆さばき――墨の扱い、間の取り方――その面では、私が中国出身の師から学んだ水墨は、むしろ書にずっと近い。墨は塗る材料ではなく、線の呼吸であり、時間の痕跡として置かれていく。
こうした“書に近い水墨”の感覚は、私にとって、アートと身体性が切り離せないという認識へ入っていく入口になった。線は身体の速度であり、呼吸であり、迷いの痕跡でもある。だから、筆先のわずかな揺れが、そのまま作品の質になる。
そもそも、書画という言葉が示すように、書と絵画(水墨画)は表裏一体のものだ。どちらか一方だけを修行すればよい、というものではない。詩・書・画に優れたものを三絶と呼び、さらに篆刻まで含めて四絶とも言われる。私はこの統合思想を古い理想として眺めるのではなく、現代の制作の技術として読み替えたい。近接する分野の機能を高めることが、一つだけに絞るよりも、かえって高い境地に至る可能性がある――私はそう考えている。