――思想を私物化しないために
思想を私物化しないためになどと言うと、 なんと大仰なことかと思われるかもしれない。そんなことは、もっと大物になり、 影響力を持ってから考えればよいのではないか。 そう感じるのも自然だと思う。
OIA(Offering & Invocation Arts)を、 私は思想体系でも芸術様式でもないものだと感じている。 それは、定義を拒むための言い逃れではない。アートの文脈では、思想や様式はしばしば固定化され、 守られるべき形として扱われてきた。 OIAは、その力学の中に回収されることを、 できるだけ避けていたいと感じている。
OIAは、思想や思索よりも先に、まず実践がある。 手と体を動かさなければ、何も始まらない。 結果として、そのあり方は、 運動(ムーブメント)に近いものに外からは見えるかもしれない。思想や様式が先に立つと、 そこには正しさや正統性が生まれる。 それは理解を助ける一方で、 更新を止め、解釈を閉じてしまう。思想は守られるべきものとなり、 芸術は再現されるべき形式へと変わっていく。 そうして、思想や様式は私物化されていく。
OIAは、そうなりたくない。
なぜなら、祈りや供献という行為は、 本来、各人に内在するものであり、 そもそも完成形を持たないものだと感じているからだ。それらは理論ではなく、態度であり、 結果を目的としたものではなく、起こってしまう過程である。
OIAが念頭に置いているのは、 常に生成の途中にあり続ける在り方、 言い換えれば「〜している最中(〜ing)」としての状態である。それは、何かを目指して進むというより、 止まらずに変化し続けてしまうことを、 そのまま引き受ける姿勢に近い。
根源的な問題点は、外在に依存する構造である。
宗教やスピリチュアルが、 外在する存在への依存を強めてしまうとき、 人の内面の進化(あるいは深化)の動きは、 そこで止まってしまうことがある。現代人は、外部からの評価に依存しやすい環境の中で生きている。 よほど注意していないと、 気づかないうちに依存の構造に入り込んでしまう。
OIAは、内在(目に見えないもの)と 外在(目に見えるもの)との関係を、 依存や対立ではなく、表裏一体のものとして捉えている。老子の語る陰陽や、 空海のいう胎蔵界(慈悲)と金剛界(知恵)も、 同じ原理を、異なる視点から語ったものだと私は感じている。AIによって生成されたデータが存在するということは、 その背後に、それを支える見えざる層が存在しているということでもある。 目に見えているものだけが、 単独で存在しているわけではない。
OIAにおいて、 個人を通過して神話的な表現が現れるとき、 そこには内在する神性があるはずだと、私は思っている。私の内面を通じて先祖を供養するとき、 目に見えない作用が、確かに起こっていると感じる。 それは信じるというより、行為の積み重ねが生む実感だ。
奉祈も供献も、制度や作法から生まれるものではない。 それらは、 目に見えるものと目に見えないものが 表裏一体として働くところから、 自然に生じてくる行為である。供献と奉祈は、何かを得るための行為ではない。 内在しているものに、 静かに向き合う実践となる。この実践において、 正解は外から与えられない。 評価も、完成も、目標も存在しない。
だからこそ、道を踏み外しようがない。
OIAが完成しないのは、未熟だからではない。 完成という状態に移行しない構造を選んでいる。それは思想を閉じないためであり、 誰かの所有物にしないためであり、 祈りと供献が、 自然に起こり、続いていく場を残すためである。
OIAは、何かを主張する思想ではない。 何かを再現する様式でもない。それは、内在するものが外へ現れてしまう通路を、 その都度、整え直す実践である。
だからOIAは、完成しない。 そして、その未完性こそが、 OIAの在り方そのものなのである。
2026年1月21日 禮白
